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【おすすめ・あらすじ・名言】ウエハースの椅子-江國香織

【おすすめ本紹介】『ウエハースの椅子』-江國香織

▼目次

  1. はじめに
  2. 作家・江國香織さんとは
  3. 『ウエハースの椅子』をおすすめしたい方・魅力
  4. ひつじが唸った印象的なことばたち
  5. まとめ

1.はじめに

今回ご紹介するのは江國香織さんの『ウエハースの椅子』です。

ウエハースの椅子、書籍紹介

By:amazon.co.jp

 

 

 

 

 

 

 

「私の恋人は完璧なかたちをしている。そして、彼の体は、私を信じられないほど幸福にすることができる。すべてのあと、私たちの体はくたりと馴染んでくっついてしまう」―三十八歳の私は、画家。恋愛にどっぷり浸かっている。一人暮らしの私を訪ねてくるのは、やさしい恋人(妻と息子と娘がいる)とのら猫、そして記憶と絶望。完璧な恋のゆく果ては…。とても美しく切なく狂おしい恋愛長篇、遂に文庫化。(「BOOK」データベースより)

2.作家・江國香織さんとは

江國香織えくにかおり

1964年東京生まれ。1987年「草之丞の話」で「小さな童話」大賞。1989年「409ラドクリフ」でフェミナ賞を受賞。以後、坪田譲治文学賞、紫式部文学賞、路傍の石文学賞、山本周五郎賞の受賞。2004年『号泣する準備はできていた』で直木賞を受賞。島清恋愛文学賞、中央公論文芸賞、川端康成文学賞、谷崎潤一郎賞を受賞。

江國さんは数々の文学賞を受賞している小説家、児童文学作家、翻訳家です。

※以下、ひつじの主観が多く含まれております。

ひつじの考えでは、江國さんの右に出る恋愛小説作家はいないと思っています。人の曖昧な感情を繊細に読み取って明文化する感性が際立っているのです。

江國さんは、その場面の登場人物の感情・情景に最もふさわしい日本語を選んでいる、という印象を抱かせるほど丁寧な表現をされます。

感情を一度分解して、無駄を最大限削ぎ、ふさわしい表現を新しく組み立てるかのように、

江國さんの紡ぐ言葉は高い透明度をもっていると思います。

ひらがな、漢字の使い方、改行の場所、1つ1つに必ず意味があり、そこには江國さんが表現したいことのすべてが詰まっています。そのこだわりと江國さんの紡ぐ日本語のうつくしさにいつも感動してしまいます。

ちいさく光るそれらが集まることで最高に静謐で情熱をはらんだ小説になっているのです。

江國さんの本を読むと、「愛とは」「幸福とは」といった曖昧で膨大なものが、

少しずつひも解くように、自分の中で確かな感覚になる、そんな体験をすることができるのです。

3.『ウエハースの椅子』をおすすめしたい方・ポイント

こんな方におすすめ

 

  • 起承転結の薄い小説も楽しめる方
  • 救いようのない恋愛小説を読みたい気分の方
  • 江國さんの小説をすでに何度か読んでいる方

 

ひとこと要約

不倫×人生の絶望とは

主人公「私」は画家で独身の女38歳。妻と子供がいる「やさしい恋人」に激しい恋をしています。

「私」は彼と一緒でないときの自分ではない、と思うほど彼を愛しています。お互いに深く深く愛し合っているという感覚は確かであるというのに、何にもなれない、どうしようもない哀しみと憎しみ。

恋人と過ごす時間/画家の仕事/食事/睡眠…それだけに区切られたような「私」の生活には、たびたび「絶望」が訪ねに来るのです。

「絶望」ー。それは子供の時から、いや生まれた時から”永遠の状態”としてそこにありました。大人になってからも、夜ベッドに入れば絶望が「やあ」といってやってきます。絶望は、突如押し寄せる私の子供時代の記憶。

一緒になれない恋人と消えない絶望。私の人生の行先とは。

4.ひつじが唸った印象的なことばたち

愛とセックス、大人になるということ

愛し合っている2人には、自分たちの関係が周りからみたら何になるのか、なんて到底興味のない話です。

惹かれて愛し合った結果が、不倫と呼ばれる類だった、というだけです。

下記は江國さんの別のエッセイで書かれている文章です。

人を好きになるというシンプルな感情を分類して、不倫とか遊びとか本気とかいちいち名前をつけるなんていうこと、どうしたってナンセンスでしょう?

ー『泣かない子供』より

 

いつでも、ちいさな愛から始まって、気づいたらあとはどこに向かうこともなく走るだけでしょう。


一緒にいることにどきどきして、緊張して、相手の目をじっと見つめることが難しくて、相手に自分がよく映っているかどうかが気になる…というのは「好き」という気持ちだと思います。

そして、「好き」という感情のその延長線上には「愛する」感情があると、気づかされることがあります。

きっと誰にも「好き」から「愛する」に変わった瞬間はわからないと思います。なぜなら、好きは自分に対してコンパスが向いていますが、愛は相手の立場(相手そのもの)になった時に始まるものだと思うからです。

出会ったとき、私たちはどちらも十分に大人だったので、もう自分を甘やかしてもいいと判断したのだ。私たちは自分を甘やかす。そして相手を。

それは欲望というよりも、休息を求める行為だった。私たちは互いをいたわるように、そんな種類の疲労も不幸も、相手の上を素通りするように、祈るように、守るように、身体を使って伝え合った。

どんな苦痛にも、どんな心配にも、私は恋人に指一本触れてほしくない。

ひつじが誰かを愛したとき、なんとなく常に根底にあるのは「かわいい」「かわいそう」の気持ちです。

その気持ちには、お互いの年齢や性別などは関係ありません。抱きしめてあげたい、守ってあげたい、そんな気持ちがわきます。

そんな気持ちも一緒にあふれてくるセックスは何よりも心地が良く特別な体験になります。ひつじが成熟した大人になった証拠のような気もしています。

 

あなたはどんな風に人を「愛して」いますか?

倫理から外れたら

「不倫」という言葉は元々、倫理から外れた(近代的な結婚制度(一夫一婦制)から逸脱した男女関係)ことを意味したようです。現代では、既婚者が配偶者以外と性交渉することを主に不倫と呼んでいます。

 

「私」は倫理から外れ、強大な幸福と同時に深い苦しみも味わいます。

あいまにどんなに愛しているかささやきあう。それはほとんどゆるやかな自殺のようだ。彼は私を愛している。私はそれを知っている。私は彼を愛している。彼はそれを知っている。私たちはそれ以上何も望むことがない。終点。そこは荒野だ。

私は、自分が恋人の人生の離れに間借りしている居候のように感じる。彼のオプションのように。彼の人生の一部ではあるけれど、同時に隔離されているように。現実からはみだしているように。

私は恋人によってこの世につなぎとめられていると感じる。それは奇妙な感覚だ。恋人がすべてであると感じるのではなく、恋人といるときの私がすべてだと感じる。私はそれを、淋しいと思うべきなのか満ち足りているとおもうべきなのかわからなくて混乱する。正しいと思うべきなのか正しくないと思うべきなのかもわからないので、しまいには考えるのをやめてしまう。

時折訪ねてくる絶望(子供時代の記憶)

本小説では、たびたび「絶望」というワードが出てきます。

まず、この小説はこんな冒頭で始まります。

かつて、私は子供で、子供というものがおそらくみんなそうであるように、絶望していた。

解釈は様々だと思います。

私たちは、忘れているだけですが、生まれた時からそういえば何千回も絶望を繰り返しています。今となっては小さな小さな絶望も、そのときの自分からすれば底の見えない巨大な穴でした。

結局のところ、何一つ変わっていないのだ、と認めるより他にない。四歳の、ピアノに直面した私も、六歳の、病院の前のくたびれた犬と自分を似ていると思った私も、あるいはまた、九歳の、絵具の蓋を歯できつく噛んでいた私も。

人生に絶望するわけではない。あのころからずっと、人生と絶望はイクォールなのだ。

恋人がそばにいないとき、「私」のもとには「絶望」という名の子供時代の記憶が、孤独を抱いてやってくるのです。

私は無口な子供だったが、それは、自分をまるで、紅茶に添えられた、使われない角砂糖であるかのように感じていたからだ。

そう感じるのは大人たちのそぼにいるときだけだったが、私は一日の大半を大人のそぼで過ごしていたし、子供ー近所に住む「おともだち」たちーと一緒にいるよりも、大人と一緒にいる方がずっと好きだった。紅茶に添えられた角砂糖でいるのが、たぶん性に合っていたのだろう。役に立たない、でもそこにあることを望まれている角砂糖でいるのが。

実はこれといって、「私」の子供時代に特別不幸な事態は起きません。ただ、暗く重い雲が頭上にずっとかかっているような子供時代を過ごすのです。(これは「私」の感性や生来の性格に近いものだと想像しています。)

ひつじの解釈では、その「絶望」は誰にでも訪れ得ます。

子供時代に感じたことや他者の言動はその後の人生に大きく影響します。児童心理学者のハイム・ギノットは「子供は乾く前のセメントみたいなもの。何かが落ちてくれば必ず跡が残る」と述べています。

ひつじにも、ふと子供時代の忘れたい記憶がよみがえることがあります。「私」の身にも、その「絶望」がより身近に感じられるものになっているのです。ただ、そもそもその「絶望」は別の場所からやってくるものではありません。自分自身と死ぬまで一緒に連れ添う存在です。

ふたりのゆくえ

物語の終盤、「私」は別れるべきだと告げますが、恋人にはそうしたいの●●●●●●?と逆に聞かれます。

私は疲れていて、眠たい。そして、なにもかも終わりにしてしまいたい。

濡れたシーツに横たわっている自分の体を、私はまるで九歳のそれのように感じる。そして、九歳の体の重さを、持て余している。

正解のわからない「私」は食事をすることも忘れ衰弱しました。

数日後に目が覚めると恋人と病院にいました。交わされる会話は少しですが、「私」も「恋人」も、もう離れては生きていけないことを悟ります。

こんなに2人はおなじ●●●だというのに一緒にいないなんてばからしい、とでもいうように

2人はいつもどおり旅行の計画を立てるのです。

5.まとめ

江國香織さんの小説『ウエハースの椅子』をご紹介いたしました。

不倫という関係の救われなさ愛の果てしのなさ 両方を堪能できます。ほかの作品では感じられない、思わずため息のでるような特別な1冊となっておりますので、ぜひ手に取ってみてください。

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